東日本大震災-仲間の電気屋さんへ石巻応援隊
3月11日に起きた東日本大震災から一ヶ月ちょい・・4月16日、エアコン工事を3台やった後、16日の早朝入りしていた先陣部隊の電気屋さん (4名入りしている)に確認し、「やることいっぱい」ということで、僕と相方とで石巻へ 行くことにしました。
工事車は、長距離に不安がありましたので、急遽、車屋さんに手配してもらい レンタカーにて23時ころ出発しました。
外環から東北道、仙台南部道路から三陸自動車道を通っていきました。途中、道路補修 のため、アスファルトが盛ってあるところがあり、あまりスピードは出せません。 とくに仙台南部道路は道路の状態は良くなかったです。
朝の5時30分ころ、石巻河南ICに着き、車の中で寝て、7時前にお店へ到着。 信号は止まっているし、家や店のまわりは、家電や家具、その他処分品の山 でいっぱいです。そして、テレビでもあるような車がひっくり返っていたり といった光景もあり、道路は、波打ってでこぼこです。
商店街は、180cmの浸水。でも、1日で水は引いたようです。 自宅の方は、60cm浸水。こちらは5日間、水が引かなかったようです。 2週間 停電。いまだにガスは復旧していません。
先陣部隊が、倉庫の片付けや床はがし、僕たちは、自宅の荷物をお外に干したり 処分品を整理したり、床下のヘドロをかき出したりで、大工仕事も少々やって 17日と18日の昼ごろの作業はこれにて終了。あっという間に帰宅時間となりました。 「またきます」とご挨拶をし、帰りは、仙台北部道路より帰りました。南部道路 より道路状態も良かったです。
5月14日東京の最高気温28度になりました。配線するために屋根裏に入りましたが 蒸し風呂状態で、汗が吹き出します。それでふと思いました。不幸中の幸いなこと は震災が3月で良かったのかなと。
初日に行ってみて、義援金などお金も必要ですが、なによりも 人の手が解決 させるんだということを実感しました。
とにかく、ヘドロの掃除が、、こんな被害になるんだと。復旧のための作業は こうやっていくのかと・・海辺の瓦礫や避難所やタレントの活動のテレビ報道 だけではわからないことが、いっぱいありました。
第二回目の石巻は、一人にて出発。大工仕事をやりに、23日から28日まで 行ってまいりました。電気屋なのに大工仕事・・まぁ、それなりになんでも。 ほぼ趣味です。 天候の悪い日もありましたが、トイレと風呂まわり壁・屋根を作るという形 まではできたと思いますが、「まだできていないのに帰っちゃうの?」と娘さん に言われてしまいました。
実家に帰った感じに、ご家庭の中で、みんなと食事をし、、楽しかったです。
25日の朝刊、地元紙に、三陸道の渋滞 午前7時から正午まで 15時から19時まで 迂回してとの呼び掛け記事がありました。渋滞24キロだそうです。
鉄道は動いていないし、車のみになりますから、渋滞もすごいのでしょうね。
26日に、町に出ました。河南インターおりた付近のショッピングセンターや ホームセンター、ルートインホテル、コンビニ、焼き肉屋さんなどは営業していました。 そのホーマックが・・火曜日定休で、こんなときに休むなー。。 と思いながら、ビバホームへ行きました。
カーナビがすぐれもので良かったです。
河南ICから、石巻駅方面へ行くにつれて、被害が目につくようになってきます。 ガソリンスタンドは並ばずに、ふつうに給油できます。レギュラー155円くらいでした。 ファミレスはまだまだお掃除中という状態で営業開始には時間がかかりそうでした。 吉野家が5月3日より営業開始とはりがみしてありました。
不便はあるものの、だいぶ復旧してきたなぁという感じはしますが、海辺は相変わらず の光景で、そのギャップがすご過ぎます。
その後、近畿や関東GWチーム総勢 9名ほどの力にて、完成に近づいたようです。しかし、 まだまだ、ボード貼りやクロス貼り、床作りなど、やることいっぱいです。
片付けや掃除だけでも、一ヶ月以上、、補修などはこれからといった感じなんですね。
日和山公園から風景を眺め、帰路につきました。
全日本でんき屋ネットワーク協同組合のネットワークの力にて、連携プレーの支援は、 まだまだ、続きます。